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枕崎鰹節物語

伝統をつらぬいて

歴史と枕崎と手技の賜物

いま日本からほんとうに日本的なるものが消えようとしています。「食」の世界でも、古いけれどいいものがどんどん打ち捨てられ、新しいけれど特徴のない便利なものだけがもてはやされているような気がします。
私たちはそんな風潮に抗いながら三百年の時間を重ねてきました。
鰹節とともにあった枕崎の三百年は、単なる時間の堆積ではなく、鰹節という日本の食文化の根幹をなすものを守り伝えてきた歴史そのものなのです。

伝統と伝承の賜物

鰹節は私たち日本人の暮らしには欠かせないものです。鰹節が古来から日本の味覚、旨味を担ってきたといってもいいでしょう。
和銅五年(七一二)太朝臣安萬侶によって献上された日本最古の歴史書「古事記」の中に、雄略天皇が国見の途上「その堅魚(かつお)を上げて舎(や)を作れるは、誰の家ぞ」と従者にたずねるくだりで「堅魚」として登場します。これは「堅魚木(かつおぎ)」の略で、神社や宮殿の屋根の棟木の上に載せた鰹を象った木のことですが、鰹とはもちろん生の魚ではなく乾燥させた、今日でいう鰹節だと考えられるでしょう。つまり鰹節は千三百年以上も前から存在していたのです。
長い歴史の中で、鰹節が飛躍的な発展を遂げるのは江戸時代宝永年間のこと。それまで煮て天日で干すだけだった製法が、紀州の漁師によって、煮て燻しその上で乾燥するという製法に改良されました。燻すことで長期保存のための殺菌効果が確保されると同時に、いま私たちが味わっている鰹節本来の香ばしさと深い旨味が生まれました。
その製法は宝永四年(一七〇七)ここ枕崎に伝えられ、以来三百年以上当時のまま守り伝えられています。

カツオの港、枕崎の賜物

枕崎の鰹節、その原材料となるカツオは、赤道をはさんだ北緯四〇度から南緯四〇度までというかなり広い範囲の太平洋を群れをなして移動する回遊魚です。
日本近海には夏にかけて北上するため、夏の到来を告げる風物詩的に「初鰹」と珍重されています。北限は三陸沖あたりで、秋にかけて南の海に戻りますが、もどってゆくカツオを「戻り鰹」とよばれ、「初鰹」とはちがう脂の乗った濃厚な味が喜ばれています。
枕崎のカツオ漁は、宝永四年に鰹節の製法が伝えられる遥か前からだったと想像できます。
帆船が主だった明治後半頃までは主な漁場は沖縄近海でしたが、漁船の近代化とともに次第に漁場を拡げ、遠く赤道直下の海域で一年中カツオを追うことができるようになりました。さらに現在のように船内での急速冷凍が可能になってからは、それまで漁場近くの港に水揚げされ保存可能な段階まで加工されていましたが、遠く太平洋の赤道周辺で捕らえられたカツオも直接枕崎港に水揚げされるようになりました。
現在枕崎は静岡県焼津とともに全国のカツオ漁を担うとともに、日本一の鰹節産地としてその名を知られています。

手技と時間の賜物

一本の鰹節ができ上がるまで、いったいどれだけの時間と手間がかかるのか、ご存知の方がどれほどおられるでしょう。その工程を目の当たりにした方は、みなさんが驚嘆の声を上げられます。
的場水産では三百年の伝統を誇る昔ながらの製法を守り、いまも一本一本指先から丹精こめて鰹節を作り続けています。
急速冷凍されて水揚げされたカツオを解凍してさばき、茹でて骨を抜き整形する。それから二週間をかけてじっくり燻す。特にカビをつけながら熟成してゆく本枯節は短くて数カ月、長ければ半年以上を要するものも。どの工程も機械化、オートメーション化することが困難で、職人の技術と経験に頼った手仕事ばかり。まさに緊張の連続で一瞬の気のゆるみも品質に大きく影響します。
でき上がった本枯節を二つに割ってみると、断面は宝石の瑪瑙のような美しい輝きを放っています。鰹節とは、まさに海の幸であるカツオを、手間暇かけることによって宝石のように仕上げてゆくといっても過言ではないでしょう。そしてそのためには伝承の技術を身につけた職人がなくてはならない、と。
的場水産では、本枯節など鰹節の製造で日本の食文化に貢献するとともに、最新の設備を導入し削りから封入までを自動化した削り節パックや、その他カツオに関する加工食品を多数開発し、伝統・伝承の技術を基礎とした総合的な食品メーカーを目指してさらなる飛躍を期しています。


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